月に溺れる
ー女の子ふたり。もがけばもがくほど、溺れて堕ちてゆく。
天気予報では、突然の大雨に注意するように言っていたのに。
私はあえてそれを無視した。雨に洗い流されれば、私の心も少しは浄化されるかと思ったのだ。
*
『ねえ、お腹空いた。ラーメン食べに行かない?』
『ごめん、私、次も授業』
『サボっちゃえ』
『ダメだよ、テスト近いのに』
小さなタイピング音がカタカタと真面目そうな音を立てる。
うちの大学の授業はノートPCの持ち込みが許可されていて、Wi-Fiも完備だから、授業中もチャットはし放題。不真面目な学生は堂々とTwitterの画面なんて開いている。
私もEvernoteでノートテイキングしながら、別窓でGoogleチャットを開いて、隣に座る美月と会話をしている。
『美月は真面目すぎるよ』
『茉奈が不真面目すぎるんでしょ』
『ねえ、お願い。後でデザート奢るから』
そこまで打つと、美月もこちらを見る。私達は顔を見合わせて笑う。
よし、今日も勝った。美月はいとも簡単に、私の誘惑に屈する。
いやいや従っているようにみえるけど、実は違うと、私だけが知っている。本当は美月も何かしら、サボる理由を求めているのだ。そう、本質的に私達はよく似ている。
美月とは、今年の春に、大学の合唱サークルで出会った。彼女は女子高出身で、合唱経験者だった。合唱団の中ではひたすら煩い私の声と違って、美月の声はそよ風のように、周りの空気によく馴染む。
声だけじゃなくてその存在そのものが、いつもふわふわとして掴みどころがなくて、地に足がついていないように見える。そんなところが、私と同類なのだ。
音楽の趣味が合った私達は、サークル以外でも語り合うことも多く、気づけばいつも二人でいた。美月は学校近くのアパートに一人暮らしで、私は少し離れたところにある学生会館に住んでいた。
学生会館は、寮ほどは厳しくないにしても、門限があり、午後十一時には玄関が施錠されてしまう。けれど特に外泊許可が要るわけではない。だから、サークル活動の後にダラダラ残って門限を逃した私は、時々美月の家に転がり込んで、一緒に夜更かしすることも度々あった。
『美月の家にiPhone忘れちゃった。持ってきて』
『了解。ついでに楽譜も忘れてるから、持ってく。部室で待ってて』
『あ、そうだった!ありがとー!』
大学図書館のMacからGmailで、美月に連絡を取る。買ったばかりの大事なiPhoneを、私はしょっちゅうどこかに忘れる。ガラケーと違ってポケットにぎりぎり入らないから、ついうっかりしてしまうのだ。
「もう。首から下げとけばいいのに」
冗談まじりにそう言って、美月は笑う。
自転車を飛ばして来てくれたのだろう。少し汗をかいて、前髪が変な形になっている。
「ありがとね」
私は美月の髪を整える。指で軽く触れるだけで言うことを聞いてくれる、ストレートでサラサラの髪。鼻筋が通っていて、目に存在感があって、綺麗な素材。なのに、こういうところ、ちっとも頓着しないところは、私と正反対だ。
美月と違って私は、いつも人の目を気にしている。肩まである髪は毎朝コテで巻いてなんとか言うことを聞かせ、アイプチで二重を作り、つけまをつける。コンプレックスの塊だから、メイクをしないと落ち着かない。
人の目というより、男の目か。高校時代から付き合っている彼氏の前では、例えベッドタイムであっても、メイクを落とさなかった。すっぴん風メイクなんて、あざといものを発明してくれた先人の知恵には感謝である。
私に彼氏がいることは、美月には言っていなかった。単に聞かれなかったというのもあるし、おそらく美月には彼氏がいたことはなさそうだったから、そんな話をしても面白くないだろうと思っていたというのもある。
だけど、多分そんなことは建前でしかない。私は知っていたからだ。
美月が私に恋愛感情を持っている、ということを。
*
「茉奈、今週土曜日、暇?」
「練習の後なら暇だけど。なんで?」
「天文台の定例観望会が当たったんだ。二人分の枠」
「ああ、近所のやつね。美月、そういうの好きだよね」
大学の近所には天文台がある。時々一般公開を行なっていて、望遠鏡で、その時ごとに違う天体を観れるらしい。
「今週は何が観れるの?」
「月、だって」
「なんだ、月か。そんなのここからでも見えるじゃん」
「そう思うでしょ? でも行ってみれば良さがわかるよ」
美月は本当に楽しそうに笑う。
土曜の夜。ぶつぶつ言いながらも、私は美月の自転車の後ろに乗って、天文台に行くことにした。
美月は二人分の重さの分、一生懸命漕いでくれる。段差がある時にはいつも前もって声をかけてくれて、私がびっくりしないようにしてくれる。彼女は優しいのだ。そういうところに、さりげなく表れている。
私は横向きに座り、美月のお腹に腕を回して掴まる。美月の立派な胸が、揺れのせいで時々私の腕に当たる。つい、触っていたずらしたくなるけれど、今そんなことをしたら二人とも怪我をするだろうことは目に見えている。
天文台へ続く最後の坂を登りきり、私達はようやく目的地へ辿り着いた。
当たり前だけど、建物の近くには、少しの光もないから、真っ暗だ。自転車を所定の場所に停めた後は、私達は特に意味もなく手を繋いで、建物に向かう。
最初は、暗いせいで足元が見えなくて怖いから、などと思っていたけど、よく考えたら、どちらかが躓いたら、もう片方も道連れになって、二人とも転ぶ可能性の方が高いのだから、本当にこの行為に意味はないと思う。
建物に着くと、既に望遠鏡までの列ができていた。私達はチケットを職員さんに渡して、列に並ぶ。
皆は一人ずつ、五分にも満たない時間で、順番に望遠鏡を覗いている。美月の後ろに私が並ぶ。私達は、前に並んでいた親子連れみたいに、狭いスペースに二人で入り、交互に望遠鏡を覗いた。
月なんか、なんて言って悪かったと思った。
生まれて初めて望遠鏡から覗いた月は、神秘的な模様と光をまとっていて、美しかった。
太陽光の反射だなんて言われても信用できないくらい、月はそのものの存在感を放っていた。
ふと隣にいる美月を見れば、焦げ茶色の瞳をきらきらさせて、『ほらね』とばかりに笑っていた。悔しいけど、私の負けだ。この月には勝てそうにない。
*
「……痛い」
「イブ、飲む? 持ってるけど」
「ちょうだい。ありがと」
私は今月も生理痛に悩まされている。月に一度、将来使うかどうかもわからない生殖機能のために、女だけがこんな目に遭うのは本当に理不尽だ。
昭和の時代ならともかく、電話機もパソコンもスリムになったこの時代に、生理痛や陣痛なんかは未だになくならないなんて、人間は進化しているのかしていないのかわからない。
「生理痛ひどい時は、えっちなこと考えるといいらしいよ」
「馬鹿じゃないの」
何言ってるんだ。処女のくせに。
部屋でやる気なく寝転がっている私の横で、美月は呑気に珈琲なんか飲んでいる。
「まあともかく、あったまるのがいいよ。なんか飲む?」
「甘いのがいい。ココアとか」
「はいはい」
美月はミルクをたっぷり入れてインスタントの粉末でココアを作ってくれる。
程よい温かさに癒される。
「私、今日四限サボる」
「もうとっくに五限の時間なんだけど」
美月は私に付き合って、四限も五限もサボってくれたらしい。私に言える資格はないけれど、流石にどうかと思う。
美月も私と同じくらい重たいカレンダー女だから、辛さをわかってくれているのだろう。
私達はしょっちゅう小さな喧嘩をしているけれど、大体後から見てみれば、それはPMSの時期が互いにかぶった時だったりとかしている。
私などは、排卵日のあたりとか無性にムラムラしたりするけれど。美月も同じ女である以上、似たようなものなんだろうか。たまにそんなことを考えるけれど、そういう話まではしたことがない。
私はろくでもない女だから、そういう時だけ、留学中の彼氏のことを恋しく思ったりもする。下手くそな男でも、何もないよりはマシなのだ。
「そういえば、茉奈ってさ。好きな人とかいるの?」
唐突に、美月にそんなことを訊かれる。
「いや別に、いないけど。美月は?」
私は反射的に嘘をつく。いや、嘘でもないか。あの男のことは、もはや好きでも嫌いでもないから。
「私も、いないけど。なんとなく訊いてみただけ」
「なんだ、それ」
私達は笑い合う。
さっき飲んだイブが効いてきて、私はずいぶん気持ちも楽になる。
「今日、満月だって」
「もう一ヶ月経ったの? 早いよね」
満月に寄せられたから、今回の生理は前倒しになったのか。
時代は移り変わるのに、私達はいまだに、月に支配されているみたいだ。
*
夏休みに入る少し前の、夕方のことだった。
その日は土曜日で、サークルの練習のためだけに大学に行った。天気予報では雨に注意と言っていたけど、私はあえてそれを無視した。
あれから、美月と私の間で、恋愛に関する話題が持ち上がることは全くなかった。けれど、どういうわけか、私の中での美月への目線だけが変化してきていた。
美月が私に恋をしていることは、間違いなかった。彼女は時々、とろんとした表情で私を見ていることがある。ただの疑似恋愛なのか、それとも美月は同性愛者なのか、わからないけれど、私にとってはどちらでも同じことだ。どうであれ、私と美月が恋仲になることなどあり得ない。私は異性愛者なのだから。そう思っていた。
美月は私に対して、想いを伝えるつもりはないようだった。本当に何一つ言わずに、私を見つめるだけなのだ。
だけど、あんな表情で見つめられれば、誰だって妙な気持ちになるだろう。気づけば美月のすべすべの肌とか、綺麗な長い指とか、大きいのに形の良い胸とか、そういうものに目が行くようになってしまった。
意識すればするほど、それは私の中で確かなものになり、胸の中で黒い渦を巻いていた。
サークルの練習が終わって、いつものように、美月と一緒に外に出る。その途端、だ。いつの間に真っ黒に育った雲が、突然激しい雨粒を私達にぶつけてきた。痛いくらいに強くて、しかも冷たい。
歩くのは諦めて、美月と二人、バス停の屋根の下に潜り込んだ。美月の薄手のシャツはびしゃびしゃに濡れて、肌に張り付いていた。レースの下着が透けて見えて、私は慌てて目を逸らす。
私は、そういうんじゃないんだから。
自分に言い訳をしながら、なんでもないように会話をする。
「なんか、急に寒くなってきたね」
「服、びしょ濡れ。嫌になるね」
しかし、雨は止まない。バスはこの日は運休だったから、他には人はいない。
知っていたけど、美月には黙っていた。
「仕方ない、家まで歩こう」
美月のその言葉を、私は密かに待っていたのかもしれない。
美月の部屋に着いて、濡れた服を全部脱いで、私達は一緒にシャワールームに入った。
寒い寒いと言って、子供みたいにはしゃいで、無理矢理浴槽に二人で入った。
初めて見た美月の身体は、あの日の月みたいに白く透き通っていて、私は恥ずかしくて目を逸らした。私の身体は熱くて、いつもよりも赤くなっていたと思う。お風呂の湯気でうまく誤魔化せていたとは思うけど。
「ねえ、雨やまないから、泊まっていい?」
「うん、いいけど」
「よし、じゃあ音楽でも聞こうよ」
お風呂から出て髪を乾かしながら、私は美月の部屋のスピーカーを勝手に借りて、自分のiPhoneとつなぐ。歌の入っていないBGMを選んで流す。
温かいココアをもらって、並んでソファに座り、音楽を聴いた。私は美月の肩に寄りかかって目を瞑る。同じボディソープを使ったはずなのに、美月の肌からはなぜか甘い香りがしていた。
いつの間にか眠ってしまっていた。
私が目を開けると、私の隣ですやすや眠っている美月がいた。
初めに目に入ったのは、その柔らかそうな唇だった。
美味しそう、と瞬間的に思ってしまった。
一度感じてしまった衝動の炎は、もう消すことができなかった。
気づけば私は、美月の唇を奪ってしまっていた。
BGMはいつの間にか止まっていたけど、私の衝動は止まらなかった。
いけないこととわかっているのに、私は美月の部屋着をめくり、その美しい曲線を眺めた。
ただ、綺麗だった。
身体が熱くなって、苦しかった。
美月、ごめんね。
私は大切な友人の肌に、指先でそっと触れた。電気の走るような感覚に襲われる。柔らかい部分を撫でる。舌先を触れさせようとしたところで、美月がもぞもぞと動いて、目を覚ました。
ああ、もう終わった。
もう、どうにでもなれ。
私は何も気にしないような素振りで、美月に触れ続けた。美月は甘い声をあげ始め、私は余計に苦しくなる。
こんな衝動、私は知らない。
「茉奈、なに、してんの」
「見ればわかるでしょ。味見」
「何考えてるの」
「美月の身体、綺麗だなって」
「そういうことじゃない」
余裕のあるふりをして、私は答える。
美月は反論しながらも、抵抗できなくなっているのがわかった。
それをいいことに、私はひたすらに彼女を刺激する。
「美月だって、ずっと私にこうしてほしかったんでしょ。バレバレだよ」
「そんな……」
私は、ずるい。
美月が私に対して抵抗なんかできるわけがない。それを知っていてこんなことをしているのだ。本当に最低な女だと思う。
「……馬鹿」
それが美月の形ばかりの最後の抵抗で、次の瞬間、彼女は弾けるように果てた。
愛しくてたまらなかった。
「……ねぇ、私にも、して?」
私のわがままを、美月は叶えてくれた。私の衝動に、彼女の衝動が重なって、私はひたすら声をあげる。
美月の綺麗な長い指が、私に触れている。それを思うだけで、たまらなくなる。一体こんな事、いつの間に覚えてきたのだろう。
「美月、もう駄目……」
「自分が、先に仕掛けたくせに」
本当に、その通りだった。
美月は、私の身体を弄び続け、私を苦しめ、そして悦ばせた。
苦しいのに、駄目なのに、そんな思いが余計に、私の頭の中を真っ白にしていった。
それからは、私は堕ちていく一方だった。
今まで以上に授業をサボり、美月と布団の中で過ごした。
美月に会えば身体が熱くなるから、満たし合わずにはいられなくなった。
自分に彼氏がいたことなんて、すっかり忘れて。
私は美月に溺れていた。
崩壊は、ある日突然やってきた。
留学中の彼氏が、日本での就職を決めて、来月帰国することになったのだ。それと同時に、私は彼と同棲をする約束をしていた。
私は悩んだ。できることなら美月とずっと一緒にいたかった。
私の身体も心もそう叫んでいた。
だけど、冷静な頭だけは、わかっていた。
このまま一緒にいたら、二人とも駄目になると。
私と一緒にいるようになったせいで、不器用な美月は、たくさんの単位を落としていた。
私の衝動に応えるために、会うたびに壊れていく美月を、私は見ていられなかった。
精一杯、演技をしていた。完全に底に沈んでしまわないように、最後の理性で、私は美月のことなどなんとも思っていないと、自分で自分に暗示をかけていた。
そして、そのせいで美月が深く傷ついていくこともわかっていた。
結局、私は男を選んだ。
私は、弱かったのだ。
私達は、よく似ていた。地に足がつかないところ、周りが見えなくなるところ、大切なものを見失いがちなところ、そして、快楽に溺れやすいところが。
美月は、私を恨んでいたと思う。
そうなるように、私は演技をしたから。
だけど、お別れの日も、私は耐えられなくなって、美月と身体を重ねた。
苦しくて苦しくてたまらなくて、涙が溢れた。何度も声を上げた。美月も、同じだった。
嫉妬深い彼女は、私の全身の至るところに紅い印を刻んだ。
あれから、何年経ったのだろう。
何度満月を見ても、私は美月のことを思い出す。
月に溺れた、あの日々のことを。
時代は移り変わり、元号だって変わったのに、まだ。
私は月に支配されてばかりだった。